諫早地峡のような地形も「なかて」だというのが前回の話でした。
「なかて」の使用範囲は広いのですね。
その続きになります。
同じ國名は大陸から大和に通じる最初の土地が長門であった。記紀仲哀紀にこれがみえる。郷名では千歳川の中洲に長門石が存在する。神代の昔から宇佐島と天原島を結ぶところであった。
(『儺の國の星拾遺』p.130)注:
原文は「宇佐島の天原島」。「宇佐島と天原島」の間違いだと思われたのでnakagawaが訂正。
地名の「長門」は「なかて」から発生したというのですね。
令制国山陽道長門国の位置は次の図の赤い部分になります。
GFDL-no-disclaimers, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=2205733
大陸から大和に通じる最初の土地とのこと。
瀬戸内側を通って大和へ行くなら陸路にせよ海路にせよ確かにここを通るでしょう。
ここもやはり、“とりつぎ”的な位置「なかて」といえると思います。
「記紀仲哀紀にこれがみえる」と書かれていますが、仲哀天皇の頃は穴門と称していました。
穴門豊浦宮が置かれており、現在の下関市になります。
もう一つ、「なかて」の意味合いがある地名として「長門石」があげられています。
「千歳川」というのは現在の筑後川のことです。
「長門石」地名は久留米市にあります。
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現在の長門石地区は中洲ではありません。
けれども平野部が狭くなった所に位置し、筑後川が蛇行している旧河道沿いにあることが見て取れます。
縄文海進時代から弥生時代にかけて、砂州が形成された時代があったかと思います。
また、有明海側ですから干満の差が大きい場所です。
干潮時に干潟が出現して渡れたかもしれませんね。
つまり、この場所も「なかて」というわけです。
長門石に関してこんな文章もありました。
千歳川を中にして、南の筑後に
田主丸 、北の肥前に鳥栖 があり、その中間に北野の長門石があります。昔、有明海が水城を通って玄界灘まで潮を差していた頃、これらは船の始点と終点であり、中継ぎの寄せ場でありました。
(『儺の國の星拾遺』p.140)
さて、「宇佐島」「天原島」という名前が出てきました。
これは海が深く浸入していた時代に、玄界灘と有明海が繋がっていたことから来ている名前です。
この本の別のページに次のような記述があります。
昔、筑紫の國はその中央を、北から玄界灘、南から有明海の荒穂、即ち滔滔たる海流が貫いて居た。
東なるを宇佐島と云ひ、西なるを天原と言った。
(中略)
宇佐島を昔は右佐島 と呼んだ。そして天原 を左佐島 とした。今、豊後宇佐にそのままの郡名と肥前松浦左左 に郷名が残る。(『儺の國の星拾遺』p.82)
イメージとしてはこんな感じでしょうか。
ものすごくおおざっぱなものですので、上の図はあくまでもイメージとしてください。
地形を見てみると、たしかにここも“取り次ぎ” “あいだ”の場所であることが言えます。
そして、宇佐島と天原島をつなぐのは長門石のほかにもう一カ所あります。
次の記事で書こうと思います。