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Zuhr⑦ 邪馬臺国の奴佳鞮なかては諫早北部を領有した王

獅子座(の一部)を“なかてのほし”と言ったことから、“なかて”に関するエピソードが続きます。

おさらいしておくと、“なかて”とは「“とりつぎ” 或は “ひきあひ”など媒酌人的存在」(『儺の國の星拾遺』p.129)を意味する言葉でした。

その“なかて”が地名に用いられ、官名にもなったそうです。

魏志倭人傳の邪馬臺国(やまたのくに)の条に奴佳鞮(なかて)なる官名が見える。肥前多良岳(九八二、七米)から南の諫早地峡の間を領有した王である。九州本土が高来彼杵の半島に接するところである。これが“なかて”なる倭語が、大陸の史書にみえる文献である。

(『儺の國の星拾遺』p.130)

これ、邪馬台国への道のりが書かれている部分ですね。

【原文】
至邪馬臺國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬戸

【口語訳】
邪馬台国に至るのに水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところで、長官を伊支馬、次官以下を弥馬升・弥馬獲支・奴佳鞮という。七万余戸ばかりがある。

*太字はnakagawa
*口語訳参考:http://www.yoshinogari.jp/ym/

諫早地峡のような場所を「なかて」と言い、そこを領有していたリーダー(長官)を土地の呼称「なかて」と呼んだのですね。

「官名」とあるのは律令制における官ではなく、『魏志』の倭人伝での位置づけととりました。
(伊都国の条では「官を爾支にきと曰い、副を泄謨觚・柄渠觚と曰う。」とあります。)

その「なかて」に当てられた漢字が「奴佳鞮」。
諫早地峡を含む、肥前多良岳から南の諫早地峡の間を領有したとのことです。
(あくまでもこの本の伝承では、という話です。)

「肥前多良岳から諫早地峡の間」がどういう場所なのか、地図で確認してみました。
(画像は、私的利用のための作業風景です。弥生時代の海岸線に近づけるため海面上昇シミュレーションサイトFloodMapを利用しています。)

この画像から、奴佳鞮が領有した地域が、「なかて(=“とりつぎ”的な位置)」であることがよくわかります。
筑前方面から陸路で長崎半島や島原半島と行来する際、必ず通る場所です。
現在でも長崎本線・大村線・島原鉄道が諫早に集まっています。

陸路だけでなく、大村湾から有明海への移動も諫早経由の方が早いです。
あ、橘湾もですね。

海面が今より高い時代は船越も容易だったでしょう。
陸海の(かなめ)なのが一目瞭然です。

邪馬台国が出てきましたけれど、私はメモを取りながら本を読んでいるだけです。
書いてあることが真実かどうかはわかりません。

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