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Zuhr⑤ 猿田彦命を山王として比叡山の日枝神社に祀った

紅白は北欧神話の二神で、紅はフレイヤ白はユールだと言う話を前回紹介しました。

紅白からの連想でしょうか、話題は猿田彦命の話に飛びます。
(猿田彦の姿は赤い顔と白い髭で表現されることがありますね。)

紅が来る年、白は去る年である。日本の猿田彦命は古くは赤面白毛の姿であり、これを山王として伝教大師最澄(七六六~八二二)が比叡山の日枝神社に祀った。比叡山の西が京都の賀茂神社であったから、或は春分或は秋分を紅白別れ目の日に祭った由来があったかもしれない。

(『儺の國の星拾遺』p.130)

最澄が猿田彦命を山王として日枝神社に祀ったとのこと。

日枝山の山王といえば大山咋神のはずですが、それとは違う伝承です。

真偽はさておいて、地元の神社にこれを補足する由緒があります。
併せて紹介します。

伝教大師最澄は、延暦二十四(八〇五)年、唐から帰朝の折に筑紫で最初の天台派寺院たる背振山東門寺を開基いたしました。そして、これを比叡山延暦寺に移した時に、その守護神としてここの山王神猿田彦命を勧請して彼の地に日枝神社を創建したと言う伝説が残っております。

(那珂川市市瀬 日吉神社由緒記)

背振山東門寺とは脊振山頂にかつてあった寺院で、現在ここには弁財天社が建っています。

脊振山頂  by Muneaki

平安時代末期から鎌倉初期にかけて、脊振山中の山岳寺院は大きな勢力を誇っていました。
私が思うには、東門寺の開基が最澄だという話は、おそらくその頃盛んになったことではないでしょうか。

というのも、例えば嘉保3年(966)に、背振山の睿恒聖人が「図彼野御山北坂本為建立下宮并堂舎」と依頼していることが『元亨釈書』にあるからです。(参考:「宗教領主背振山の成立と衰退」吉良国光)

「図彼野御山北坂本為建立下宮并堂舎」というのは、大雑把に言えば「御山(=比叡山)における坂本地区のようにしたい」ということですから、東門寺を比叡山に近づけようとしていたことになります。

東門寺の開基が最澄で、ここから比叡山に移ったのならこちらが本家本元のはず。
比叡山における坂本地区のようにしたい、と真似するような発想は生まれないのではないかと思いました。

移転先(比叡山)が本家(脊振)を凌いだので巻き返しを図った、ととれないこともないですが。。。

また、現在の日吉大社で特に猿田彦命が崇敬されている様子はありません。
山王が猿田彦命なら、もっと大々的に祀られていてもよさそうです。

那珂川市に伝わる伝承が間違い?
うーん。
そうは言っても、伝承には何らかの意味があるのではないかと思っているところです。

そもそも比叡山自体が古代からの祭祀の場で、日吉大社の原点とも言うべき奥の院にも磐座があります。
現在の姿になるまでに、いろいろな要素が加味され、また廃されたことは十分考えられます。

最澄は猿田彦命を祀ったけれど、地元本来の祭祀に押され埋もれたのかもしれません。
記録に残らず消えたものの中に猿田彦命があったかも・・・、というのはこじつけ過ぎでしょうか。

「日枝」が「日吉」表記になったいきさつや、東本宮の「猿の霊石」、大山咋神のお使いとされる「神猿まさる」の存在も気になる所です。
(参考: 『日吉大社 山王三聖の形成』江頭務/イワクラ(磐座)学会会報 28号))

現在の比叡山からは考えにくいですが、猿田彦が山王という何とも不思議な伝承。
実はこの話には続きがあります。
次の記事で書きたいと思います。

追記

肝心なことを書き忘れていました。

那珂川市市ノ瀬の日吉神社の祭神は、『福岡県神社誌』によれば次の通り。

・天御中主神
・大己貴神
・彦火火出見命
・大山祇神
・八雷神
・菅原神
・埴安神
・宇賀魂神
・高淤加美神
・闇淤加美神
・田心姫命
・迦具土神
・手力雄命
・表筒男命
・底筒男命
・中筒男命
・須佐之男命
・天照大御神

そう。猿田彦命がいらっしゃらないのです。
最澄が連れて行ったからなのか、伝承が間違っているのか、これもまた謎です。

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