コトバンクより引用
獅子座を軒轅といった。黄帝軒轅氏(前二六九八~二五九九)の御車のことである。
史記封禅書第六に曰く、
黄帝、日を迎へ策を推すに、後率ね二十歳にして、
復た朔旦冬至なり・凡そ二十推、三百八十年にして、
黄帝・僊して天に登れり。(『儺の國の星拾遺』p.129)
中国式の星座「軒轅」は次の図の白円で囲んだ部分です。
獅子に見立てる西洋式とはずいぶん違います。
「軒轅」を構成しているのは獅子の頭部と前足。
後ろ足の部分は別の星座になっています。
文化が違うと星の見え方も違うのですね。
(軒轅図はstellariumのものを用いました。軒轅17星の同定については考慮していません。)
ブルーで車輪と轅を書いてみました。
馬などが引く車に見えないこともないですね。
「

そしてまた「軒轅」とは中国の伝説時代の帝王の名前でもあります。
黄帝は少典の子なり。姓は公孫、名は軒轅といふ。
(『史記』五帝本紀/新釈漢文大系/明治書院)
この星座は、中国では黄帝をイメージさせる星で、「日を迎へ策を推す」という暦の出発点を想起させるものなのですね。
(黄帝と暦については「暦の修正にメトン周期を利用していたことが『史記/封禅書』に書かれている」に書いています。)
以上、獅子座ヅールを中轅星というのは、獅子座の星の並びを軒轅に見立てる中国の文化から来ているという話でした。
さて、軒轅は又「なかてのほし」と言う別名を持っています。
軒轅は早春の星である。これを古人は仲女星・中條星といった。
(『儺の國の星拾遺』p.p.129
“なかて”とは何でしょう?
“なかて”とは、長門(仲渡)とも書く。時間空間の無明未妙の状を形容した古語である。“とりつぎ”或は“ひきあひ”など媒酌人的存在であった。宮中では三太夫という。能の舞台で三番叟がこの趣旨を生かした例である。
(『儺の國の星拾遺』p. 129)
〝なかて〟というのは、〝長門〟とも書き、時間空間が「無明未妙」の状態であることを形容する古語であり、二者の間にあって仲立ちをするような存在とのことです。
令制国の長門であれば、九州と本州の間にあって二者をつないでいると見ることも出来ますね。(ただし長門国の初見は天智4年(665年)。それ以前は穴門国。)
また「三太夫」というのは「家族や金持の家などで、家事や会計の仕事などをまかされていた男の総称。家令、家扶、執事。」のことで、家の奥と外を取り次ぐ人です。
これもまた「なかて」です。
三番叟は神と人とを取り次ぐ舞?演目?(何と表現したらいいのかよくわかりません)で、やはり「媒酌人的存在」と言えます。
この流れで「なかてのほし」について考えると、どうやら二つの季節が関係しているようです。
時あたかも冬至から春分、或は立春から立夏までの夜空に輝く黄金の星であって、一年の終わりと始めの季節である。
(『儺の國の星拾遺』p. 129)
軒轅が夜空に見えるのは現在の季節で言えば冬から春にかけてですが、これを「なかて」と捉えるのは「一年の終わりと始めの季節」とする考えが背景にあることになります。
言い換えれば春を一年の始まりとする考え方と言えるでしょう。
おそらく立春元旦か、春分元旦のカレンダーです。
春を一年の始まりとするカレンダーを使っていた人たちというと、古代ローマのローマ暦があります。(国立天文台の暦wikiによると、古代ローマではFebruarius (2月)が年末と考えられていたそうです。)
最初期のローマ暦(ロムルス暦)は、一年をMartius(現在の暦で言う三月)から始まる十か月 (304日=8日/週×38週)とし、残りは数えないという変則的なこよみでした。
一年は約365.242日ですから、約61日の空白(日付がない)の期間があったことになります。
この空白期間がそれこそ「時間空間の無明未妙の状」だったのではないでしょうか。
だとしたら、獅子座を“なかてのほし”と呼ぶルーツは、このようなカレンダーを使っていた人たちにあるのかもしれません。