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堤土塁跡(三養基郡)

常々見たいと思っていた土塁をようやく見てきました。

『儺の國の星拾遺』にこのようなことが書かれています。

 万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)下手(しもて)の二つに別けて、その境の狭く(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門をおき、冬は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早稲の水稲を植え、やがて上手の水が空閑(こ が)になると、そこに晩生の陸稲を植えた。貯水の面積までが活用される仕組みであった。
(中略)
人間が灌漑と耕作に努力をはじめた時代は、氷河期以前にあったらしい。水と雪を堰き止める堤の工事現場からでた炭は、肥前三根で二万三千五百年前と推定される。

『儺の國の星拾遺』p. 140~141

これによれば、灌漑のため狭隘な所に土塁を作って水を堰き止めたというのですね。

灌漑といっても、水源から水路がずうっと延びてきて区画ごとに配水するのではなく、貯水面も含めて土地を有効利用する三毛作だったようです。

その痕跡がこの土塁ということになります。

しかもこれ、版築工法で作られています。

版築の土塁と言えば、太宰府にある水城もそうです。

実は、水城は筑紫国造ちくしのくにのみやつこ磐井が開いた貯水*注だと言う伝承もあり、それでこの場所を実見したかったのでした。

水城はその後天智天皇が造り替えているので、いわば原型(伝承が本当ならですけれど)を見たいと思っていたのです。

現地の説明板です。

近くにはAso4の火砕流で埋まった森林が出土した遺跡など、いろいろ見所があります。
時間の都合で八藤丘陵の遺跡だけ見てきました。

こんな感じで何もありませんけれど、ここまで火砕流が来たというのを実感できます。
確かこの時の火砕流は針摺を越えて太宰府や那珂川まで到達しているのですよね。

*注
原文はという字です。
フォントがないので「塘」で代替しました。

話は全く変わりますが、引用部分の次のページ(p.142)に「シベリアから来た森林の氏族が南進して佐渡・能登・出雲を開拓した」という意味のことが書かれています。
インドや東南アジアから陸伝いに日本へ来るルートもあり、それだと日本海側を南下する形になりますね。

別のページ(ページ数メモし忘れ)には、「稲作は北陸にもたらされた」という記述もあり、貯水塘を巧みに利用した大胆な三毛作のルーツは北方にあるのかもしれないし、寒冷な気候に対応したのかもしれない、と思ったりしました。
つまりよくわかりません。

田付星の章が終わったので、次の章に入るのですが、星の話かと思いきや中国の古代の話だったり天智天皇と水城の話だったり。
何が飛び出すことやらです。

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