多賀神社(直方市)②-多治比縣守の宿願で再建 & 多賀大社のこと

直方市にある多賀神社の創建に関して、『福岡県神社誌』より引用します。

尚社説に述ぶる所精細にして次の如し。創立の年代は太古に亘るを以て詳ならざれども、元正天皇養老三年多治比真人、縣守宿願により鞍手郡司某をして再建せしめたること旧記に明なれば、その再建以来既に千二百餘年の星霜を經たり。

太字はnakagawa

(『福岡県神社誌』上巻)

神社の創建は、“太古に亘るを以て詳なら(ず)”とのことですが、養老3年に多治比真人縣守たじひのまひとあがたもりの宿願で社殿を再建したと書かれています。(直接携わったのは「鞍手郡司某」。)

いつどのように再建されたかが、具体的です。

多治比真人縣守とは、養老年間に遣唐押使を務めたあと正三位・中納言にまでなった人物。

父親は左大臣にもなった多治比嶋で、当時の有力者。

そんな人がなぜ筑紫の片隅(?)の神社再建を願ったのか不思議に思いました。

それもただ願ったのではなく「宿願」とあります。

とても強い意志があったことを感じます。

以下、このことについて考えてみました。

まず、多治比縣守と筑紫の接点について。

私なりに考えたのは次の二つ。

1、兄の池守が大宰帥を務めていた。
2、自身が遣唐押使を務めた。

私はやはり、2の遣唐押使を務めたが大きいのではないかと思いました。

当時対外使節は筑紫館つくしのむろつみで旅支度を調え、太宰府政庁の下で出入国管理を受けます。

必ず筑紫との接点ができます。

そして帰国後は時間をおかずに再建にとりかかったようです。

時系列で見ると、こうです。

養老2年10月 帰国
同年  12月 朝廷へ復命
養老3年 ? 直方の多賀神社再建

なんとなくですが、神社の再建と遣唐使の任務には関係があるように思えるのです。

さらに言うと、この時の遣唐使団は一人の犠牲者も出ていないそうです。

想像に過ぎませんが、多治比縣守には航海の加護への感謝があったのではないかと思えました。

だから再建を宿願した・・・と言ってしまうのは、さすがに短絡しすぎでしょうが、ここには何かあるような気がしてなりません。

遣唐使の守護といえば難波の住吉神社のはずですが、わざわざ鞍手の神社を再建した理由は何でしょう?

ここが北斗七星をまつることと航海術を持つ人々の存在が思われてなりません。
(妄想ですけれど。)


余談ですが、縣守と唐へ行った中に阿倍仲麻呂・吉備真備・井真成・玄昉がいました。

メンバーを見ても、この時の使節は特別だったと思うのは考えすぎでしょうか。

さて、「多賀神社なら総本社は滋賀の多賀大社ですよー(意訳)」と言うコメントをいただいたので、多賀大社のことにも触れておこうと思います。

多賀大社のことはまた別の機会にと思っていましたが、書いておかないと直方の多賀神社について誤解を招くようなので。(早速コメントをいただいたのがその証拠。)

まず、多賀大社の創建を滋賀の『多賀大社由緒略記』で見てみます。

社歴略年表から一部を抜粋します。

神代

    伊邪那岐大神淡海國多賀に鎮座、一に日之少宮といふ

反正 3年

    木菟臣勅を奉じて降臨の地を検す

清寧 1年

    天皇一日群臣と本社の祭議を論定し給ふ

元正 養老年中
 

    しでの樹を以て飯匕を作りて獻りし
(『多賀大社由緒略記』官幣大社多賀神社社務所)

古い順に見ていくと、まず神代に鎮座し、一説に日之少宮と言ったとのことです。

「日之少宮」は「ひのわかみや」ですね。
直方の多賀神社も古くは「日の若宮」と称していました。

ご近所の飯塚市にも「日少神社」と書いて「ひわかじんじゃ」と読む社があります。(現在は「日若」表記。ちなみにどちらも多賀大社からの勧請とは書かれていません。)

話を戻します。

滋賀の多賀大社は、反正天皇の時に降臨の地が検証されたとのこと。

「検」とありますが、どうもこの時降臨の地を決めたのだと思えました。(あくまで個人の印象です。)

伝承はあったけれどはっきりしていなかったという体をとっていますが、つまりそれ以前はなかったと見ることも出来る、と思いました。

しかも勅により検証したのは木菟臣とあります。

この時代の木菟臣というと平群木菟しか思いつきませんが、もし平群木菟が多賀大社の場所を決めたとしたらびっくりです。

そして清寧天皇の時に祭儀が決められています。

だんだんと神社が形作られていったことが読み取れます。

元正天皇の「しでの樹を以て飯匕を作りて獻りし」のエピソードは有名ですね。

今はしゃもじになっていますが、本来は飯匕いひかひ(スプーン)なのです。

これは北斗七星の象徴ではないか、と思いました。

現在は柄杓に例えられる北斗七星ですが、文献に柄杓が登場するのは室町・鎌倉期以降なので、元正天皇の頃は飯匕いひかひだったかもしれないと思いました。

ただ、文献にないからといって当時モノがなかったとは言い切れないので、この見方は間違っているかもしれません。



元正天皇と言えば、多治比縣守が直方の多賀神社を再建したのも元正天皇の時代でした。(養老3年は元正天皇の時。)

この偶然は何でしょう。



偶然と言えばこの話も入るでしょうか。

多賀大社は元は犬上氏の氏神だったと言う説があります。

犬上氏は飛鳥時代の遣隋使・遣唐使として知られる犬上御田鍬にはじまる氏族とのこと。(byウィキペディア
遣唐使を務めた人が信仰していたのですね。

多賀神社・多賀大社の「多賀」は北斗七星のことでした。
もしかすると、航海の指標として遣唐(隋)使たちが見ていた星だったのかもしれません。

こうなってくると、多賀大社のシンボルとも言える杓子(元正天皇の飯匕いいがい)は、やはり北斗七星になぞらえたのかもしれない、と思えてきます。

直方市多賀神社境内鳥居からASTROBAZAで北を見た所

案外多賀神社のオリジナルは筑紫なのかも???

 
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