嘉穂郡桂川町土師の老松神社。
由緒の記 (冒頭部分)。
主祭神は大国主神となっています。
創建の年代ははっきりしないとのこと。
ただ、大己貴命が少彦名命と力を合わせて天下を治めていた時、先払いをしばらくここに置いた土地だそうです。
その後垂仁帝の時代に土師氏が登場します。
(垂仁帝は殉死を禁止し、出雲から呼び寄せた土部に埴輪を作らせて代わりとしました。その時与えられたのが「土師」姓とされています。)
土師氏には諸国の鍛地が与えられ、その中の一つがこことのこと。
大己貴命と少彦名命の時代に先払いを置いたという、いわば先祖由来の土地を与えられ、出雲から(?)移住した後に神社が創建されたということでしょうか?
土師氏とこの周辺の関係を『筑前國續風土記拾遺』から引用します。
土師村
民居は本村及取平谷 徳力に在。又八王寺
あり。國中の廣村なり。東西は嘉麻郡平山 弥山 内山田 才田の四村 に堺ひ、同郡下臼井村に隣れり。村の名義村老傳へて云。往昔出雲國より土師氏の人来りて初ハ隣村平塚村に居住し 後爰に移住して近村を掌りし故村名を土師といひ、其宅地を御所が原といふ由語り傳ふ。村内に庄 中 と呼ふ地あり。此所十二ヶ村の中央なりしゆゑかくいふにやあらん。 (『筑前國續風土記拾遺』)
村の老人の言い伝えによれば、土師氏が出雲から来た時にまず住んだのは平塚村でした。
グーグルマップで見ると、現在の平塚は赤線で囲んだ範囲のようです。
その後現在の土師地区に移り住み、周辺の村を掌握したので村の名前が土師村になったのだそうです。
上の地図で見ると、平塚地区の東に「大字土師」の地名が見えます。
(土師氏の住居があった所を御所が原といったそうで、「御所」と名がつくほどの勢力だったことがわかります。)
平塚村の中の、最初に土師氏が移住した部分のことを「出雲」と付けた当時の人々の意識を想像すると、言葉も習慣も違う人達がいて、租界のような感じだったのでしょうか。
「出雲」という地名は、〝かつてここに出雲から来た人が住んでいた〟と言う意味で付いた名前なのですね。
上図の平塚区の範囲内に「出雲」地名が見えます。
県道65号線と国道200号線の交差点にある信号が「出雲」表記になっています。
この信号を挟んで1km四方ぐらいがそうなのでしょうか。
ところで、「出雲」地名がついたのはいつ頃なのでしょう。
また今に至るまで「出雲」が残っている理由は何でしょう。
外国の人が住んでいたので唐坊・唐人町と呼ばれたような感じで、ここに
ここに限らず、福岡には思いがけないところに大己貴命や少名彦命を祭る神社があって、いつも不思議に思います。
境内を見ていきます。
立派な神橋がありました。
幹の空洞が広がってとうとう二つに分かれた樟。
社殿。(正面から)
社殿。(側面から)
社殿向かって右には興味深いものがありました。(○で囲んだ部分)
福部神社です。手水が備わっています。
福部神社と言えば祭神は島田忠臣のはずですが、『福岡県神社誌』では高魂神となっていました。(え、どういうこと??)
でも拝殿の横には梅紋の装飾があるので、菅原氏の関係社だと思われます。
『福岡県神社誌』はどうして高魂神としているのでしょう。
それとも神社誌の福部神社はこの社ではないのでしょうか。
福部神社の前には牛の像もありました。
祭神と関係あるのか無いのかはわかりませんが、牛の像の横に山羊のような羊のような像がありました。
この像もナゾ。
個人的にこの福部神社周辺が気になりました。
そのほか、石をご神体とする摂社が多い印象を持ちました。
鳥居の神額は老松宮ですが、社殿の額には菅原神社と書かれていた摂社。
祭神は『福岡県神社誌』によれば菅原神。
**参考までに、太宰府天満宮摂社の老松社と福部社です。