御陵宝満神社(大野城市)

大野城市の御陵宝満神社。
以前訪れたときに比べ、なんだかすっきりさっぱりしていました。

平成26年に社殿が改修されたようです。
木が伐採され境内が整地されていました。

鳥居の神額は寳満神社。

由来を書いた説明板。

ここは玉依姫の神廟で、景行天皇、神功皇后が祈願したと書かれています。

661年に斉明天皇の勅願で天智天皇が宮を再建、670年に寳満宮と勅号したとのこと。
「寳満宮」の名付け親は天智天皇なのですね。

670年に「寳満宮」と勅号したのであれば、661年に再建した時は違う称号(社号)だったのでしょうか??
なんという社号だったのか気になるところです。

また天智天皇元年の661年というのは斉明天皇7年でもあります。
『筑前国続風土記付録』等から抜粋したというこの由来では、天智天皇は斉明天皇没後に即位しています。
(後世の付会かもしれませんが。)

この年の事情は慌ただしく、3月に一行は那の大津に到着し、7月には朝倉で斉明天皇が亡くなっています。(『日本書紀』)
ですから斉明天皇が発願したのであれば、それは3月から7月の間だったと思われます。
当時の社号がわかりませんが、玉依姫に何を願ったのでしょう。

そして天智〝天皇元年〟の再建ということは、斉明天皇崩御後の7月~12月の間だと考えられます。

その9年後に「寳満宮」と勅号したのですね。
うーん。
再建から勅号までの9年のタイムラグはなんでしょう。
謎です。

さらに言うと、寳満宮と言えば太宰府市内山の寳満宮竈門神社(以下竈門神社)を思い起こしますが、こちらは天武天皇2年(673)の創建です。
御陵寳満神社の創建時にも天智天皇の再建時にも、現在の竈門神社は存在していなかったことになります。

ということは、673年までは玉依姫を祀る主要な神社はこちらだったことになります。
(筑紫野市にある山家寳満宮にも竈門神社より古いとする伝承がありますが。)

寳満宮を巡るこのいきさつは何かありそうな気がしますが、あるとしてもそれが何かさっぱりわかりません。

『筑前國續風土記拾遺』の御陵寳満宮の箇所を見てみました。

タイトルは「寳満宮?社」となっています。
この本が出来た当時は?社と表現される状況だったようです。
(*機種依存文字 「旧」の異体字)

ん?ちょっと待って。
何か気になる一文が見えます。

「皆孟浪の説にて信用し難し」と書かれています。ええっ。
(孟浪=とりとめのないこと。いいかげんなこと。)

青柳種信から出た言葉なら、それなりの理由があると思えます。

実はここ、御陵古墳群と言って、発掘されただけでも14基の古墳があった丘なのです。

そして御陵寳満宮はその古墳群があった丘陵を背にして建っています。(現在その丘は造成されて御陵中学の敷地になっています。)

玉依姫を祀っているとして、古墳群との関係は??と思ってしまいます。
もしここが玉依姫の山稜だとして、その上に後の時代の人がドカドカと古墳を築くだろうか、とも。

元々の社殿は「御陵の松」があった所だそうですから、古墳は関係ないのかもしれませんが。
もとあった場所がわからないので何とも言えません。

一つだけ言えるのは、「御陵といふこと故あるなるべし(御陵と呼ばれていることには理由があるのだろう)」ということ。
(「へし→べし」の濁点はNakagawaが補いました。)

きっとここにはなにかあるのでしょう。
そうでなければ分祀されたりしませんよね。

神社を見ていきます。

拝殿の神額は「寳満大神」です。特別感があります。

影になってしまいましたが、軒瓦は尾長三巴と波濤でした。中寳満神社と同じです。

ちょっと面白かったのがこれ。
注連柱に「神徳は妖霧を排す」と書いてあって、「妖霧って何?」と思ってしまいました。
海上の道行きを妨げる霧でしょうか。
それとも宝満山の霧でしょうか。
神武天皇が山越えする時、霧が立ち込めて進めなくなった話もありました。まさかそのこと?

もう一方の注連柱はなんと読むのかわかりませんでした。
「國のもといたるや 竈山の如し」でしょうか?違いますね。

参拝するまで簡単に考えていた御陵寳満神社でしたが、実際に訪れてみるとそうはいきませんでした。
歴代の天皇が訪れる程の何かがあったことは間違いないようです。

(御陵というなら、田中熊別の墓をみささぎと言っていたのも同じことかと思ったりもしました。有力者が眠っていると言う意味で「陵」ではないのかと。春日市にも「御陵」地名ありますし。)

分祀された残りの神社も見ていこうと思います。

 

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