王城神社に大切に保存されていた「田中橋」の碑。
このあたりに住むの方にとって重要な橋だったようです。
現在の田中橋へ行ってみました。
擬宝珠のある朱の欄干があります。
橋のたもとには、旧住所表示もありました。
西鉄都府楼駅あたりからこの辺一帯までを「田中」と言ったようです。
すぐそばに、神武天皇を警固した田中熊別のお墓と伝わる場所がありました。
「田中の森」、また、「
旧国道3号線(現県道112号線)の通古賀の信号を大佐野の方へ約200m程行き、鷺田川にかかっている田中橋を渡る辺りを小字田中という。橋を渡ると、右手、家々に囲まれて大きな二株(クロガネモチとタブ)の木がそびえている。この樹の根元にある石碑は、神武天皇に
仕 え、大野城(王城山)の山頂で東夷征伐の武運を祈願した神社の祭主をつとめ、任を終えて国衙庄(通古賀)に下向した田中熊別の墓と言われている。
また、この一帯を田中長者の「田中の森」といい、田中長者と隣村の武蔵 の虎丸長者の勢力比べの昔話は、テレビの「まんが日本昔話」にも取り上げられた。(『とおのこが風土記』p.65)
「田中の森」由来記。
田中熊別の子孫はこの地でずいぶん繁栄したようですね。
さて、「西」の
次の地図で「東蓮寺跡」と書かれている場所です。
線路越しに見えている小高い丘がそうです。
ここに田中熊別の子孫が建てた東蓮寺というお寺があったので、地名になったそう。
田中の森に祀られていた田中
熊別 の霊を後裔 の田中熊秀が祀 るために建立した寺で、薬師堂もあり、田中の森の東であるので東の稜 、東蓮寺(東林寺)といっている。(『とおのこが風土記』p.61)
また、「東の
こちらも田中熊別に関連したお墓のようです。
これについて、王城神社社内の大楠の下に田中熊別の末裔を祀った石躰(早馬大明神)があったけれど(『筑前國續風土記拾遺』)、明治に薬師山に遷したという話が伝わっています。
先ほどの画像でもわかるように、東蓮寺があったのは小高い丘で、薬師堂もあります。
田中熊別の末裔を祀った石躰(早馬大明神)が遷された薬師山とはここだったのではないでしょうか。
だからここも尊敬を込めて「稜」と呼ばれているのだと思いました。
東は田中熊別の、西は末裔の「稜」ということになるでしょうか。
未確認の部分もありますので、今は推測の域を出ませんが。
それだけ地元の方が大切にしていると言うことですね。
日本昔話の田中長者と虎丸長者についてはこちらに詳しく載っています。
この虎丸長者というのは藤原虎麿の事だそうです。
藤原虎麿は蘇我日向と同一人物という説もあります。
蘇我日向というと孝徳天皇紀に登場し、天智天皇(当時は中大兄皇子)との関わりも深い人物。
山家宝満宮に玉依姫が化現したのも大化年間でした。
何かありそうですね。