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武雄神社(三養基郡)

千栗八幡宮境内摂社武雄神社。

祭神は武雄心命たけおごころのみこと

景行天皇に仕え、祭祀・占(卜)を司っていたとあります。

日本書紀のこの部分ですね。

《景行天皇三年(癸酉七三)二月庚寅朔》三年春二月庚寅朔。卜幸于紀伊国。将祭祀群神祇。而不吉。乃車駕止之。遣屋主忍男武雄心命〈 一云、武猪心。 〉令祭。爰屋主忍男武雄心命詣之。居于阿備柏原、而祭祀神祇。仍住九年。則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛。生武内宿禰。

(『日本書紀』J-TEXTより)

この神社では手足の神様といわれているそうです。

「祭祀・占(卜)」を司っていた人が「手足」の神とはどういうことでしょう。

妄想レベルですが、自分なりに考えてみました。

まず、武雄心命という人格神ではなく、「祭祀・占(卜)」という職能に注目しました。

「祭祀・占(卜)」の方法には、天体観測によるものがあります。

亀卜は天文暦書をもって人智の及び得ざるところを神に頼る術であった。祖先は亀甲をあえて採らずとも、その去来をもって天気を案じていた。

(『儺の國の星拾遺』p.207)

その際指標となる星はいろいろでしょうけれど、北半球であれば北斗七星は欠かせません。

その北斗七星の別名に、「足」が入るものがあるのです。

神代の昔は斗極の呼び名に足長あしなが手長てなが足名椎あしなつち手名椎てなつちがありました。斗極の空間的位置から時間的経過を見て計った先祖の心ばせがよく伺われる名であります。

(『儺の國の星』p.25)

小熊座を手長星てながのほし、大熊座を足長星あしながきほしと言った。

(『儺の國の星拾遺』p.67)

まとめると、大熊座の北斗七星を足長星あるいは足名椎、小熊座のことを手長星あるいは手名椎、と言ったのですね。

「斗極」という表現をしているのは、北極星がなかった時代だからでしょう。
小熊座と大熊座二つの柄杓をあわせて「極点を示す斗」と表現したように思いました。

つまり、斗極を手長足長(手名椎足名椎)と呼ぶ人たちがここにいて、時間を計っていたのではないかと考えました。

そのイメージが、後に祀られた占(卜)を司る武雄心命と習合したのだとしたら、つじつまは合います。

ちょっと無理矢理ですけれど。

参考までに、景行天皇時代の斗極をシミュレートしてみました。

景行天皇の時代に千栗八幡宮から見た北空

図を見ると、手長星足長星が相対してクルクルと日周運動をしていたことがわかります。
この二つの動きから中心点を予測して、北極点を推察していたように思われました。
(もちろん北極点を知るための、他の方法もあります。)

余談ですが、この時代は北斗七星が地平線に沈まなかったのですね。
九千部山に横たわる姿が見られます。
この後歳差のためだんだん高度が下がって地平線に沈むようになり、現在に至ります。

『佐賀県神社誌要』によると、壬生春成が栗の夢を見たのは元正天皇の時でした。
夢の話を都で奏上し、任地である肥前に戻って社を創建するときには聖武天皇の時代になっていたので、聖武帝の勅願という話になったとのことです。
つまり、夢の話を聞いたのは元正天皇だったと考えられます。
元正天皇も北斗七星に縁が深い人物です。
ここでも北斗七星との関わりがあったことになります。
(これは自分でもこじつけにすぎると思いますが。)

武雄神社の手足の神様には、北斗七星の別名である手長足長が関わっているような気がするのです。

そうそう。
前記事で、継体帝17年の創建だとする伝承も紹介していました。

肥前千栗ちりく神社は継體帝十七(五二三)年の創建で、ここが少彦名命を祀る祠の南限界ときく。

(『儺の國の星拾遺』p.207)

ページをメモし忘れましたが、「スクナヒコナ」は暦の読み方だという伝承もあります。
一日一日を一つずつ指折り数えることがスクナ読みで、月初めの干支だけを拾い集めることがヒコナ読みだそうです。

神代に現れる少彦名命はまさに土地の神すなわち天文暦法の達人であったことになる。

(『儺の國の星or拾遺』p.メモし忘れ)

少彦名命が祀られたと言うことは、やはり天文暦書に関わる何かがこの地にあった事を示しているように思いました。(人格神としての少彦名命を奉斎した人達がいた、とも言えます。十干十二支による数え方のようですから、漢字文化圏の人だった模様。)

武雄神社の裏には、二基の灯籠が出迎えてくれる参道があります。

もしかしたら社殿への参道があるこちらが正面だったかもしれないと思いました。
だとすると、以前は北を向いていたことになりますね。

今は枯れていますが、池もありました。

武雄心命が祀られていることについては、小郡市力武の「竈門神社」との関連も気になるところです。
妻である山下影姫の伝承がありますから。

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