千栗八幡宮(三養基郡)

昨日の記事「葛城神社(三養基郡)」に ♥(いいね)とメッセージありがとうございました。
面白い神社と言っていただいて嬉しいです。
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さて、葛城神社から北北西に5kmほど行くと、千栗八幡宮があります。

境内の由緒書によれば、養父郡司壬生春成が、神亀元年に聖武天皇の勅を奉じてこの地に社殿を造営し創建したものだそうです。

〝聖武天皇の勅を奉じて創建〟と聞くと、天皇の詔勅主導で創建されたような印象を売けますが、そこに至る経緯がありました。

佐賀県神社誌要』から要点を抜粋し、紹介します。

    ・元正天皇の時代、郡司壬生春成がここで狩をし休憩した時に二羽の白鳩が弓にとまり少しも恐れる様子が無かったので驚いた。
      ↓
    ・その夜の夢に翁が現れ、昼間の白鳩は八幡大神の使いで此の地に降臨する瑞相だと言って丸盆に千の栗を盛って授けた。
      ↓
    ・夢から覚め不思議に思って翌日此の地に来ると一晩で千株の栗の木が生えていた。
      ↓
    ・後日、都に上った際このことを天皇に申し上げると、感じ入られる事が一通りでなく、八幡宮創祀を命じられる。
      ↓
    ・神亀元年、帰任した春成は社を建てて奉祀する。

  
と言う流れが創建までにあったということです。

また、壬生春成が社を創始したとき、聖武天皇の皇子を戴いて祭主としたそうです。

皇子の名は「國玉王」。(意味深な気がするのは考えすぎでしょうか。)

皇子下向に際し、出雲大社から随身が付けられたとのこと。

聖武天皇が重要視していたことが伝わります。

さて、壬生春成の館は現在の養父八幡神社にあったとされています。

千栗八幡神社から直線距離で北北東に6km程行ったところです。

位置関係を見ると、狩に来たというより、筑後方面を窺いに来たようにも取れる地形ですね。

当時、背振山系と水縄山系は宝満川や筑後川で隔てられ、間は湿地だったでしょうから、千栗神社あたりが最端だったかもしれません。
  
この神社が創建された背景にはいろいろな思惑があったような感じです。

話は変わりますが、ここはとても見晴らしがいい場所なので、古代より要所だったのではないかと思えました。

その一例が『儺の國の星拾遺』の伝承です。

これによれば、千栗神社は継体帝17(523)年の創建で、少名彦命を祀る南限だったとのこと。

肥前千栗ちりく神社は継體帝十七(五二三)年の創建で、ここが少彦名命を祀る祠の南限界ときく。

(『儺の國の星拾遺』p.207)

少彦名命については痕跡が見つけられず、全くわかりませんでしたが、この伝承には何かしらの真実があると思っているところです。

境内を見ていきます。

正面参道の石段と手すりが整備されて、きれいになっていました。

この階段で鍛えたオリンピック選手がいました。

とにかく見晴らしがいいのです。
そして参道がまっすぐ高良大社に向かっているように見えます。

石段とは別の参道沿いに石祠が集められていました。

ちょっと気になったのがこちらの神様。

境内社については項を改めて書こうと思います。

2019/10/17 追記
「ちりく」について、北斗七星の柄の部分の三星を「散子(ちりこ)」に見立てたところから来ているとする話や、ギリシャ語の3の数え方から来ているとする話もあります。(参考『儺の國の星拾遺』p.208)

 
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