前記事では山家岩戸神楽を中心に書きましたので、今回は境内の様子を見ていきます。
山家宝満宮では、本殿を囲むように境内摂社が並んでいました。

大日霊貴命とあります。灯籠もあり、小社ながら立派。

天嫗社。祭神は豊玉姫のようです。(『筑前国続風土記拾遺』より)
厳島神社。

徳満宮。祭神は多分「大巳貴命」だと思われます。(宗像や糸島と同じ〝徳満宮〟であれば。筑後だと水神系。)

以上は神殿と同じ敷地にあったものです。
以下は神殿から離れた場所にありました。(標高差10m・距離50m以上はありましたので、もしかすると近隣から集められ合祀されたのかもしれません。)
向かって左から
1番目、祭神はわかりませんでした。
2番目、「高木神社」。「大行事社」表記ではないので、古い信仰を伝えているのかもしれません。
3番目、「猿田彦大神」。「庚申」でも「猿田彦」でも「猿田彦太神」でもない表記です。笠塔婆のようです。
4番目、祭神はわかりませんでした。立派な石祠です。

こうして境内写真を見ていると、この神社には古い信仰があることを感じました。
実は山家神楽の記事を書いたとき、改めて『福岡県神社誌』を読んだのですが、書かれていることに大変驚きました。
玉依姫の
御廟は御陵宝満神社(大野城市)だけではなかったのですね。
なんとなく、御陵宝満神社が北の守りでここ山家宝満宮は南の守りのように思えました。
玉依姫が守りたいのはもちろん、四王寺山にあったという王城。なんてね。
それから孝徳天皇大化二年に、神功皇后應神天皇を奉祭したとも書かれていました。
この頃筑紫で動いていたのは中大兄皇子です。
背後に中大兄皇子が居るような気がするのは考えすぎでしょうか。
宝満宮をたどると何か見えてくるような、そんなことを教えてくれた神社でした。
創立不詳、寳滿宮由来書に曰く、當社山家寳滿大神は勸請由来の義に
在らす
化現より以来降臨の本津宮にて萬代不易の廟窟也と神俗共に申傳侍る
其後人皇三十七代孝徳天皇(附記孝徳天皇は第二十六代なり)大化二年丙牛歳神功皇后應神天皇を奉祭せりと云ふ
寳滿宮由来書に曰く、當社山家寳滿大神の由来を尋ね奉るに海神豊玉彦の御子玉依姫命と申奉る
地神五代鸕鷀草葺不合尊の神功皇后也治世八十三萬六千四十二歳神武天皇を日向の國高千穂と云ふ所にて産み給ひ
然後玉依姫命山家奇魂之地に入給ふと也
(『福岡県神社誌』より一部引用)
(私注:「在らす」とあるのは「在らず」の誤植、もしくは濁点無表記だと思われます。)